きょうは、おしゃべりをするときの熱量と速度を保ったままの文章を書かれるすきな先輩にお会いして、やっぱりすきだなあと思っていたところ、「検閲前夜のひらログはもう更新しないのですか?」とたずねられてしまったので、先輩のまねごとはできっこありませんが、なんとなくおしゃべりをするときの気分で、ここにことばをこぼします。
いまから試みるのは、映画「ボヘミアン・ラプソディ」に寄せられたある感想を批判的に検討するということです。読後、純情と感動をずたずたにされた、と感じる方もあるでしょう。よかれと思ってしたことはよい結果をもたらす、と信じる方は引き返されることをおすすめしますけれど、私の書くものを好まれるなかにはいらっしゃらない気もしますから、このままつづけます。
さて、その感想とは、「ゲイに対する偏見がなくなった」といったものです。これはTwitterに散見される声をおおざっぱに要約したものであって、特定の個人が発したことばの引用ではありません。また、最後にもういちど述べますが、「偏見はおそろしい」は、これとは異なります。
これのどこがまずいのか、というと、〈偏見はなくならない〉ことに無自覚であるところです。「偏見がなくなった」と述べる人のなかには「ゲイは才能豊かですばらしい人たち」とか「障害を乗り越えてはぐくんでこそ真実の愛」とか、新たな偏見を(涙をさそう物語としてきもちよく享受して)もちはじめただけの人もあるかもしれません。差別や偏見は必ず〈明確な悪意〉とか〈根拠のない拒絶反応〉としてあらわれる、という偏見は根強いものですが、根底にあるのが善意であろうと無知であろうと(私の経験上、多くはその両方です)、事実と異なるものの見方はすべて偏見です。たとえば、「女性はコミュニケーション能力に長ける」も「お金持ちや美形は人格まですぐれている」も偏見です。
くりかえしますが、偏見はなくなりません。人のいうことのすべては偏見である、という偏見を私はもっています。ひとつのからだ、ひとつの頭だけをもち、たったひとりぶんの人生しか歩めない人間に、偏りのない見方をせよというほうが無理な話でしょう。
「ボヘミアン・ラプソディ」を観て、ほんとうに、ゲイに対する偏見の解消に近づいた人は、自身の〈偏見に気づく〉か〈偏見を恥じる〉かします。「偏見がなくなった」として片づけるのではなくて、「このことを、正しく知ろう」とするはずです(差別をなくすために必要なのは論理と知性にほかならない、というのも私の抱きしめる根強い偏見です)。
映画という、ぞくぞくするような、贅沢で知的な体験のあとで、偏見は悪意ではなく無知にもとづいている、とわかっているからです。
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ところで、私は、本作を、ゲイを揶揄せず、奇異の目で見ず、同情も尊敬もせず、つまりはなんの興味も抱かない(この心情は、偏見をもっていない、に近いといえましょう。そうでなければバイセクシャルである私とはつきあえないはずです。また、私や彼のような観客は、これを読んだところで「ゲイだからなに?」とでも思うだけでしょう)音楽好きの宇宙人とともに鑑賞しました。
彼は人間模様についてはとりたてて言うべきことがなさそうで、劇中の曲のことばかり嬉々として語っていました。「We Are The Championsのコードはすごい。あのメロディにしか合わないと思う」と教えてもくれましたが、じつは私は上映の途中から、お手洗いをすませておかなかったことを悔やんでうわのそらでしたから、ろくな返事もできず、食べるのが遅いせいで大量に残ったポップコーンをほおばってごまかしたのでした。