検閲前夜のひらログ

おひまつぶしになれば、さいわいです。

ガスマスク

 いままででいちばん、毒にも薬にもならぬどころか、毒としては作用しそうな、むろんためにならぬのはいつものことだが、うつくしくもおもしろくもないものを書く。ぐちをこぼす。はたして、おひまつぶしくらいには、なりましょうか。

 いまこの国で、おまえのいのちやたましいの値打ちはこんなもんだよ、という宣告にひとしい報道の絶えないここで、希望を燃やして生きる人々というものがあるなら、それはいかれたお人好しか、あんまりにものを知らないのだと、おれはおもう。こんなしゃべりかたを、いちどしてみたかった。おしまい。

 私の「生きづらさ」を、「個人の特性」に還元してみることは可能であるし、一見して妥当でもある(ところで私が「生きづらい」とみずから名乗ったことはいちどもない)。エルジービーティーで、もしかしたらエーエスディーかもしれないと疑われており、きっとエイチエスピーにちがいない、とかなんとかで。ひらたくいって、「自己責任とまではゆかないが、社会構造の問題ではない」と。

 しかし、日本にあって、返ってこない年金と割に合わない消費税を収めねばならぬのは私だけではない。集団暴行や性犯罪に遭っても、司法がにぎりつぶす。子をふやせと責められ、従わねば「おまえは無価値」と判断する政治家もあり、いざ外に連れ出せば邪魔もの扱いを受ける。ヘルジャパン。だれの大発明だろう、この六文字は。枚挙にいとまがないとはまさにこのことだから、このあたりにとどめる。

 それから「修士・博士はモラトリアム」という向きもあるらしく、私は、私のだいじにする考えがだいじにされない社会を逃げのびる気力が、ここでまたしてもへし折られてしまった。

 とはいえ、努力次第で院進学は叶う。エンジニアへの転職が成功すれば、時間と場所の拘束を受けない働きかたはいずれ実現する。ひとりぐらしも、猫を飼うのもいつだってできる。私が子どもをもたないことにも、姓を変えないことにも、信頼する身近な人々は反対しない。

 でも、じゃあいっか、じゃねえんだよ。というきもちも、むらむらとわきおこってくる。うまくすれば、大学卒業の経歴だの実家の財産だのにすがりつけば、この私ひとりの文化的生活とか尊厳とかいったものは侵されずに生涯を閉じられるかもしれないが、それがいったいなんになる。そもそも、人権意識と想像力の欠如に殴られた経験なら、すでにじゅうぶんもっている。私自身が暴力に加担した過去もある。

 なんにたとえよう。ガスマスクとか。いまの日本は、ガスマスクつけておけばだいじょうぶ! だからたのしいことだけ考えよう! ほら、オリンピックはすぐそこ! といったぐあい。ガスマスク、それは正社員という身分であったり、異性の配偶者であったり、潤沢な貯蓄であったり、日本国籍であったりする。

 つまり、それをだいじょうぶとはいわない。なぜそんなものが必要なのか。持たざる人はどうなるのか。ガスマスクのいらぬ澄みきった地平をわれわれは真に望んでいるのではないか。