検閲前夜のひらログ

おひまつぶしになれば、さいわいです。

女と女の映画が好きだ

 私は女と女の映画が好きだ。けれど、とりたてて映画に明るいわけではない。白状すると、これまでに観たのは、観た順に『キャロル』『アトミック・ブロンド』『燃ゆる女の肖像』『お嬢さん』くらい。いたってかわいいミーハーだ。とはいえ、映画と出会うのに遅すぎることはないのだから、家に閉じ込められている今月のうちにもっと詳しくなればよろしい。

 有識者のみなさまから、お気に入りを耳打ちしていただければさいわいです。女と女が愛しあう映画なら、きっと私はなんだって好きだといいます。

 いな、「なんだって」は言いすぎた。なんでもよくはない。私の好きな女と女の映画には──たいていは、観終えてからそれを満たしていたことにようやく気づくのだが──好きになるための要件がひとつ存在する。

 端的に申しあげましょう、「わたしたち、女どうしなのに……」なんて、おファックですわ。女優にそんな台詞を言わせないでちょうだい。観客にそんな台詞を聞かせないでちょうだい。

 すなわち、女と女が愛しあうときの障害を〈女どうしであるということ〉と設定しているレズビアン映画は願い下げだ。あまりに安易で陳腐だ。かなり古いのとか、時代考証のうえで作られたのとかなら、私の知らない名作があるのかもしれないけれど、これからはぜったいに撮っちゃだめだ。ぼくらはもう、その次元を超越してしかるべきところに立っている。ネバー・ディスエンパワメント!

 上述の四作はその点がよかったので、すごいしオススメです。外野のモブならなんかごにょごにょしてたのもあるかもしれないけど。忘れちゃった。

 ところで、女と女が〈女どうしであること〉をものともせず(本来ならば、いま、ここは、それが当然の世界であるべきです。女が男と愛しあうのとなんら変わりなく。)愛しあう映画の世界は、先進的で幸福なのだろうか? 残念ながらそうとはいいきれない。

 大晦日の新宿で『燃ゆる女の肖像』を観てから気づいたことがある。一八世紀、ブルターニュの孤島を舞台にした本作の主人公は、望まない結婚を控える貴族の娘と、父の名でしか作品を発表できない肖像画家。まさしく燃え上がるように愛しあうふたりは、「わたしたち、女どうしなのに……」などとしとやかにひかえめにこころひそかに葛藤する役を割り当てられるような憂き目を見なくて、めちゃよかった。

 と、映画館を出た直後は思っていたのだ。よくなくね? に変わったのは、駅ビルで遅すぎる昼食がわりのスコーンをかじっていたときのこと。

 一八世紀フランス、観ているこっちの血管が切れそうになる男社会で、女性の同性愛が「あってしかるべきもの」「人間関係のひとつの形態」とみられていたなんて、そんな都合のいい話があるだろうか? 現実はきっと違う。ちょちょいと調べたかぎり、レズビアンがゲイほど厳しく罰せられた例が少ないのは、きっと「許された」からでも「認められた」からでもなく、存在を黙殺され、矮小化され、軽んじられてきたからだ。女どうしの恋などありえない、気まぐれやたわむれにすぎない、と。キレそう。

 マリアンヌとエロイーズだって、別れの日が来ることなどはじめからわかりきって、愛しあった。親の決めた結婚は絶対だから。キレそう。

 『燃ゆる女の肖像』を悪くいいたいのではない。私は環境や構造におファックですわを突きつけたい。むりやり「ハッピーエンド」に仕立て上げたところで軽薄な絵に描いたもちもちのおもちになるだけだから、あれはあれで最高だった。ある女がたしかに女を愛したのだと観客に示してくれた。見よ、女を愛する女が生きている。あたりまえだ。ありふれたことなのだ。

 ちなみに、最近だいすきなのは『お嬢さん』。スッキが変態じじいの蔵書を破り捨てる場面を、くりかえしくりかえし再生する。私の愛する映画の女たちは、そりゃ笑顔はとびきりかわいいが、いつもにこにこなんかしていない。自由と尊厳をかけて怒っている。私は女と女の映画が好きだ。