きのうは夕方ごろから頭が痛くて、仕事して買い物して作り置きのハンバーグを平らげるところまでがんばって、でも皿を下げることは叶わず20時に就寝した。起きたらけろっとしていた。ところが、Twitterをひらくとまた頭が左右からしめつけられ、なんか顎も痛いし、これストレスだな、と結論している。
飛び交うホットワードは「灯火管制」やら「日額20万円」やら……前者の荒唐無稽ぶりについてはだれもが知るところであり、また後者は、弊社が百貨店にも靴を卸しているため、どれほど現実を無視し、従事者の生活を軽んじた金額であるか想像に難くない。てか、そうでなくても、わかるでしょ。わかんなかったら、聞くでしょ。そうやって当事者の声をもとに決めてゆくものじゃなかったの、政策って?
こうもゴミカスクソバカファッキンナイトメアジョークとしかおもわれない暴挙が実現されると、当然ながらみんな混乱に陥って、怒るのにも疲れて、諦めてひれ伏して、声を上げても届かないから黙って、ささやかな日常(それが破壊されているのがいま、ここなんだけどな)によろこびを見いだすほかなくなって、で、オタクの大喜利がバズりはじめる。国民的といってさしつかえない漫画やアニメのパロディ。
ぶっちゃけ、おもしろい。秀逸にして風流。現代の川柳みたいなもんだよね、そのこころは。でも、そういうのやめようってあえていいたい。
なぜ? だいいちに、おもしろがれるのは、マジのガチでヤバいわけじゃないわれわれだけだから。生活と生命を脅かされた人、すでに罹患されて亡くなった方をおもう。へらへらして、わが身をなぐさめて、なんになる?
そうでもして溜飲を下げるほかないのも、すごくわかる。ぼくも怒るのに疲れた。シャワーでさっぱりしたのに、また頭痛くなってきたし。それでもサボらずに、いちオタクとして、オタクのありかたを見つめなおしたい。つづけます。
だいにに、卑屈なんだよ。笑ってやり過ごすって、ぱっと見スマートだけど、暴政に虐げられている現実を好転させる力をもたない。お道化を演じて、致命的な殴打を免れるいじめられっ子にもひとしい態度。戯画化された「ガースー」や「百合子」に親しみを覚える人があるとしたら、それは幻想だ。「がんばっているんだから」と擁護する声さえある。権力者とおのれを同一視するなんて勘違いもはなはだしい。大喜利のその先、あるいは根底にひそむマインドって、そういった勘違いに似ているとおもう。
オタクの大喜利は、おもしろいよ。おもしろいけど、そんな川柳のごとき婉曲表現に活路を見出さなくても、いまはなにをいおうと首を刎ねられたり家を燃やされたりしないから。毅然と抗議することができるから。それが聞き届けられないから絶望しているのも、痛いほどおなじきもちではあるが……。
ぼくはオタクだ。不条理に甘んじる卑屈なオタクであるより、気高き不機嫌なオタクでありたい。笑ってやり過ごすオタクであるより、怒れるオタクでありたい。オタクのともだちにもそうあってほしい。このわざわいをしずめたら、オタクのみんなで大喜利をしよう。