きのう、職場でいちばん歳の近い先輩と、音楽についてあれこれくっちゃべった。先輩は距離感がバグっていないのでラブい。たとえば、私が結婚したとして、それを知ったところで「そうなんだ」くらいしか答えなそうなところがこの人の美点だ。職場では稀なタイプだ。事務所にふたり残ると、無言になるか、めいめいの好きな曲を流して思いつきを口にするかで、きのうは後者だった。
最近、大学生のころまで弾いていたベースを実家から回収した。もう二度とさわらないつもりでいたが、バンドという形態のなかで人間と関係するのに懲りただけで、ベースを弾きたい気持ちは残っていたらしい。それからピアノも弾きたい。ピアノはずっと好きだが気軽に弾ける場所がない。ピアノの弾き語りもやってみたい。しかし歌はうまくない。──などと、私は一方的につらつらと近況を報告した。歌がうまい人の歌を聴きながら、「歌がうまい人は歌がうまいですね」「うますぎてさ、『もうやだ、きらい』ってなって、最後まで聴けないことってあるよね」などと、とりとめもなくしゃべった。
「もうやだ、きらい」が、すごくわかる。ほんとうにきらいなわけではないのだ。すごい人がすごい作品をたくさん世に出してくれたほうがハッピーに決まっているのだ。でも、なんか、やんなっちゃうやつね。嫉妬や羨望より、消極的で内向きな感傷。私はそれを、最も身近な他人に覚える。最愛の宇宙人のキーボードと作曲の腕前はセミプロレベルを超えているのではないかと私は見ている。「きらい」にこそならないが、そのまぶしさに目を焼かれ、しわだらけの梅干しみたいな顔をするほかない瞬間をなんどでも経験する。
それはさておき、新事実が発覚したのもきのうのことだった。弾き語りでライブハウスに呼ばれたりもする先輩がギターをはじめたのは、二二歳くらいのころだったらしい。遅い部類だと思う。私は大いに励まされた。弾き語りの練習しようかな。先輩は「ひらちゃんは楽器がもうできるし、歌はだれでも歌えるから」と教えてくれたけれど、歌ってだれでも歌えるの? まあいいや。
励まされて機嫌をよくした私は、これまた思いつきの持論を展開した。子どものころにはじめた趣味の上達が速いのは、ひとつには、自意識という雑念が邪魔をしないからである、と。
私の場合、ピアノを弾くのと、文章を書くのには、時間が許すかぎり打ち込める。いっぽう、絵を描くこと、ベースを弾くこと、歌を歌うことは、好きで得意になりたいのに、身が入らない。重い腰を上げて、こわごわなぞって、ちょっとしたらやめてしまう。だって、思いどおりにゆかないのが気に食わないから。
楽器の演奏を楽しめるようになるまでには、演奏者の性格にもよるが、ほとんどの人は一定の技術を必要とする。はじめたてのころは、新鮮な驚きに満ちているから、どんなに下手でも喜んで取り組める。そのうち、したいことを実現するためには練習が不可欠というところにきて、上達を実感できない人からやめてゆく。おもしろみを見出せるのは、そのずっと後だ。
私の経験のみによれば、子どものうちは、練習が大人ほど苦にならない。「つまらない」や「悔しい」はあっても、理想の音源や周囲と比較して気後れしたり恥ずかしがったりするという意識がまだ働かないからだ。このマジでいらん自意識が、ほとんどの大人から新しい趣味との出会いを遠ざけているのだと私は信じている。
上述のマジでいらん自意識を、私は強くもっている。マジでいらんのに。これが、幼少期を過ぎてから興味を持ちはじめた絵やベースや歌に対する苦手意識につながっている。目と耳だけはまったくの初心者より下手に肥えているから、「これがやりたい」も、そこに程遠い「自身の腕前はこんなもの」もはっきり認識できてしまうのだ。
そこで、多少は随意にからだが動くおもしろみをすでに知っているピアノや作文が、恰好の逃げ場になってくれる。不思議なもので、ピアノを弾いていて難しい曲やパートに出くわしたときは、素直に「できるまで練習しよう」と思えるのだ。他の趣味だって、できるまでやらなきゃ楽しくならないというしくみは同じだ。それでも、私のなかでは〈できない〉ことの重苦しさがまるで違う。ピアノを弾いていて出てくる課題がハードルなら、ベースのそれは背丈より高い壁だ。乗り越えかたがわからない。なにをどれだけすれば打開できるのか見当もつかない。
ここまで書いて、「独学の限界では?」といまさら気づいた。怠惰な人、孤独に耐えられない人、分析的にインプットできない人、アウトプットをためらいがちな人は、先生を見つけて、助言と宿題を求めよう。先生は友人でもかまわない。
最愛の宇宙人は典型的な独学向きの人で、頭がやわらかくてものごとをとらえるセンスがゆたかなところもすばらしいが、私との最大の差は、マジでいらん自意識が稀薄なところだ。そんなものに囚われる暇はなく、音楽へのラブがいちばんにあるのだ。まぶしいね。作曲? 楽しいから、いっぱい聴いていっぱい作ったらできるようになってたの。みたいな宇宙人なのだ。「楽しくなかったら、無理にやらなくていいんじゃない?」とか思っていそう。まぶしいね!
私は文章を書けなくなったらまちがいなく魂から死ぬが、音楽が世界から消えてもたぶん生きてゆける。音楽に取り憑かれているとか、音楽をなによりも愛しているとかいったら、虚偽の申告になる。でも、音楽のよろこびがこの世界にあるかぎり、うまくやりたいし、もっと好きになりたいのはほんとうだ。うまくないとおもしろくない。でもいまは、うまくないから練習がおもしろくない。
自意識という雑念がもたらすジレンマ。マジでいらん。できるまでやれば、できるようになるはずだから……。少なくとも、遅すぎることはないというのはたしかだから。