検閲前夜のひらログ

おひまつぶしになれば、さいわいです。

ダメ日記

 オリンピックの開催期間にTwitterから離れて、暮らしぶりが整った。なんでかわかんないけど7時に目が覚めるし、朝につきものの軽微な吐き気は空腹感に変わったし、皿はこまめに洗うし、帰ってすぐ風呂に入るし、時計が2時とか3時をさしているのを見なくなった。なんでかわかんないけど。早寝・早起き・早風呂には縁がないまま死ぬと思っていたのに。造花と昼光色の照明を取り入れたおかげだろうか、自宅の居心地もよくなって、カフェに使う金額もたぶん人並みに落ち着いた。いままで、Twitterに魂を吸われていたのかな?

 川べりの石ころをひっくり返すみたいに、こわごわタイムラインをのぞいたことも数回あった。いずれも最悪の結果に終わった。ジジイ(性別と年代を強調する蔑称をあえて用いるべきか悩んだけれど、この文脈においてはふさわしいと判断する。選手が若い女性でなかったら、この加害者は恋人の有無などたずねなかっただろうし、権力をもつ年長の男性だから周囲もこれまで暴走を止めなかったのだ)が自身の所有物ではない金メダルを無断でかじったり、実家の沿線で無差別刺傷事件が起きたりした。二日三日くらいずっと悲しいので、また見るのをやめた。私は弱い。

 うっすらわかっていたことが、はっきりした。Twitterじゃなくて世の中が悪い。そして、Twitterから情報を摂取するというやりかたが私の性質に合っていない。

 Twitterって、思想信条をなるべく変質させずに伝達するのには、どっちかっていうと不向きなメディアなんじゃないの。字数制限が厳しい。投稿の内容を修正できず、ひとたび間違った情報が拡散されてしまえば、読み手の認識を改めるのはきわめて困難になる。投稿と投稿のあいだに連続性がなく、発信してきた内容のごく一部だけが大勢の目に留まる場合も少なくない。そうして、誤読が誤解を招き、望まない分断がいっそう深くなる。

 もちろん利点もたくさんある。なにかしらの存在を周知するにはうってつけだろう。私だって、Twitterをとおして何度「真に孤独ではないのだ」「いまここはクソファックだが、前に進む意志をもつ人があるのだ」と教えてもらったことか。

 でもやっぱり、私自身が特定の主張を主目的として発言することは、今後あまりないような気がしている。ことばを尽くし、選びぬき、書いては消す。そういった熟考の姿勢を、激流のごときタイムラインにあると忘れてしまいそうになるから。間違っても直せないのはこわいし、かつての誤りばかりが人々の記憶に残るのもこわい。

 知ろうとすること、考えること、書くことはやめない。やめたら、なんで生きているのか、もっとわからなくなる。そうそう、なんで生きているのかなんていつもぜんぜんわかっていないんだけど、このごろはとくに「人生長いなあ」(これは婉曲表現)が毎日頭をよぎる。それもこれも、友人に会えないから。なじみ深い新宿駅に、最後に降り立ったのはいつだろう。

 大学の友人に会いたい。いな、出身大学はどうでもよくて、大学時代から仲のよい顔ぶれに会いたい。私が私のしたいことばかりをして生きていたころ、私のおもしろいと思うものをおもしろがり、私がだいじだと思うものをいつくしんだ人たちに会いたい。在学当時から、私たちの住む島国にはクソファックな側面がいくつも見出せたけれど(それ以前は無知ゆえに見えていなかった)、それをクソファックだと指摘しあえる人への信頼で私は生きのびられた。

 人はたくさんいるのに孤独ってこういう感じなのかもね。ここ一年くらい、善意の人々に囲まれて、にこにこ働いて、それだけだ。政権の批判はタブーだ。つまり問題意識を共有していない。このままでもべつにいい、どうしようもないと思っている。ときどき、どぎつい「冗談」を耳にする。だれも怒らない。たぶん悪気はない。反吐が出る。具体例は伏せる。

 弱りに弱って、このごろ「みんなと同じになって楽したい」みたいな願望を自覚した。こんなのってはじめてだ。存在しないみんなにも、私自身の生きざまにも無礼だ。

 友人に会いたい。