検閲前夜のひらログ

おひまつぶしになれば、さいわいです。

下書き

※当記事は、なんとなくいたく気に入ったため、メインブログにも投稿しました。内容はまったく同じです。

歳下のアイドル

二〇代後半にさしかかり、歳下の俳優やアイドルを好くことが珍しくなくなった。歳下の成人がざらにいるようになったためだろう。私は歳下に魅力を感じないのではなく、過重な感情労働に従事する未成年を観賞したくないらしかった。「新人発掘」と銘打ったオーディション番組なども視聴したことがない(そもそもステージを降りた生身の人間の「素顔」とやらに多くの興味がもてない、というのもある)。あるいは、十代の自己決定する力を低く見積もりすぎているのだろうか。

選挙

衆院選が近い。支持する政党のビラがポストに入っている。私がその政党を支持する根拠となっている理念についての記述は乏しく、紙面のほとんどを学費免除について書くのに費やしていた。この街には子育て世帯が多いからだろうか。これは私宛の手紙ではない、という淡い寂寥を覚える。「民主主義は多数決」という俗説は重篤な誤りであるけれど、しかし選挙は、多数派の支持を得たものが勝つ椅子取りとしての側面をもつ。支持する政党という観点から評価した場合の少数者たる私が、投票所へゆく足取りはつねに重い。

匿名の猥談

周囲の口にする「下ネタ」の内容が空想から体験談に変質しはじめたころから——具体的には高校を出たあたりから——私はそれをめっきり話したがらなくなった。聞くのもだめだ。それでも佐伯ポインティ氏の動画だけはおもしろく視聴している。ポインティ氏に出会ってわかったことがある。私は猥談がきらいなのではなく、個人情報漏洩の現場に居合わせることに耐えられないのだ。「それ、ばらしてもいいか聞いた? 私的な記憶の第三者提供について、先方の許可は得た?」と疑わねばならないことに大いなる不安を感じるのだ。余計なお世話であることは承知だから、黙っている。匿名の猥談を好む。

道を聞かれる

ロングヘアと眼鏡をやめてから、見知らぬ人に声をかけられることが一切なくなった。募金を装った詐欺、ナンパ、要領を得ないなにかしらの勧誘。外見のみによって「きっぱり断れないだろう」と判断されていたのだ、と切に実感する。なめやがって。かつてわが散歩道に闖入したゆきずりの他人たちをひとしきり呪ったのち、このごろは警戒心を置き去りにして駅前に繰り出せるまでになっていた。不快な体験も、いずれその手ざわりを忘れるものなのだ。そうでないと身がもたない。ところが、きょう、また見知らぬ人に道をたずねられた。もちろん「なめやがって」とは思わないけれど。声をかけられにくい人と、なにが違うというの?

食事を残す

星の数ほどあるひとり暮らしの利点のひとつに、「食事の内容・量・時間を完全にコントロールできる」というものがある。出されたものを残せない性格の私は、二五歳にしてようやく、自身の肉体にとっての適量を知った。それは以前に摂取していた量よりだいぶ少ない。買ったり作ったりした日は、余らせた分を冷蔵庫に眠らせておけばよいのだが、外食となるとそうもゆかない。定食の一人前は、胃にやや重たい。どうするか。苦しくても食べきる。供された食事を残すことに対する強烈な抵抗感を、いまだ拭えずにいるのだ。何度か考えた。健康を害してまで完食にこだわる姿勢は非合理的だと。対価の支払いを約束した時点で、食材の使途に関する決定権は私に移るのだから、残すことは契約違反にあたらないと。私に供された食材は、平らげようが残そうが「他の人に回せる」可能性をすでに失っていると。それでも残すことができないのだ。この意識を手放すより前に、いずれ無理がきかなくなって、食べきることが物理的に難しくなるかもしれない。そのとき私は罪悪感に苛まれるだろうか。安堵するだろうか。