自分が書いたからあたりまえといえばあたりまえなのだが、上の記事でいわれていることがわかりすぎる。ずっとこれになってる。私は孤独がもたらす独善をおそれている。
コミュニケーションツールの発達した現代、話し相手がひとりもいないという状況に陥る心配はしていない。コミュニティは星の数ほどある。たとえそのうちのどれかひとつが消滅しても、変質しても、関心を失っても、やらかしても、つぎつぎ転々とすればよい。似たような趣味の人は自然と寄ってくる。Twitterなんてまさにそう。
じゃあなにがこわいって、道を踏み外しかけたときにひっぱたいて止めてくれる人がいないかもしれない、とふとおもう瞬間だ。これまでそこそこなかよくやってきた人が、レイシストとか、トランスヘイターとか、陰謀論の信奉者になったらさ、説得を試みたり見守ったりできる? 私は怠惰で薄情だから、せいぜい二回くらい口をきいて、だめそうなら縁を切るよ。
肉親がレイシストになった。それはいいあらわしようのない絶望で、でも、私はできることをしたし、もうない。子どもの私がなついていた物知りでひょうきんな父はもういないということも、父の過ちを面と向かって指摘する人はもういないであろうことも悲しい。そして、私自身がそうならないなどと、なぜ言いきれるだろう? それがずっとこわい。
他人に異議をとなえるのって、たいへん難しいんだよね。疲れるんだよね。シンプルにめんどうくさいとか、聞き入れられなかった経験があってあきらめているとか、自身の考えが正しいという確信がもてないとか、どこまでが個人の自由として認められるか判断できないとかで。で、まあ、あんまやりたくないよね。だからだろうな、私はいろいろのことをまちがってやらかして恥じ入ってきたけれど、そのわりに口論をしたり叱られたりした経験というのが極端に少ない。それもずっとこわい。
「私にされていやだったことはいやだったって言ってね!」ってラブい友人に頼んで回りたいくらいだけれど、<いやだって言う>のは膨大なコストでありストレスだから、この頼みって「無償で私を教育してね!」とあんま変わらんのよね。未成年とその親じゃあるまいしってね。いやなときにいやだって言ってほしかったら、「いやだって言ったら真摯に聞いてくれそうだ」と感じとってもらえるようにふるまうしかない。
え! それめっちゃ難しいじゃん。ぜんぜんできてないわ。これからもたくさんまちがってやらかして、そのたびにまともな人がなにも言わずにスッと離れてゆくんだわ……。悲観しすぎかな。自身が怠惰で薄情だからって、私のことが気に入って接近してくる他人たちも同様だと決めつけているだけかな。
「私はこう考える」はいくらでも書けるのに、そこでは不毛とか滑稽とかクソバカとかおファックとか言いたい放題なのに、「あなたがそう言うのを聞くと悲しい」はのみこんでしまう私だから、他人たちがそのように表明する機会をも冷淡な態度で奪ってきたのではないかと、ずっとこわい。干渉や介入を毛嫌いしながら、「まちがったらひっぱたいてほしい」というのも虫がよすぎる話だろう。周囲に差し出してこなかったものを、なぜ周囲から与えられると期待できる? きょう、ずっとこわがってるじゃん。こわいんよ。
この恐怖は、おそらく書くのをやめない動機の一部にもなっている。なぜ書くか。書かないと脳裏に文字列が堆積する体質だから、メモリを解放してやるために。記憶(のうち、できごとではなく感じたこと)をあたりさわりなく改竄する悪癖があるから、偽らざる感情を記録する練習のために。思考を整理するために。意思を表明することで、志をおおむね同じくする人を身のまわりに集めて、快適に暮らすために。それから──私の無知や誤解がだれかを踏みにじっていないか、見張ってもらうために。
最後のひとつは過度な期待にすぎないが、読者には読者をやめる自由があるし、私に人望がなく異議の申し立てがなかったところで、困るのは私だけだ。ただどうしようもなくこわくて書いている。私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。