ダメ日記をシリーズ化する姿勢がダメすぎる。この前は夏、で今回は冬だから、次の夏にでも第三弾のダメが分泌されるでしょう。
先週から今週にかけては、めずらしく忙しかった。詳細は伏せるが、取引先の(とはいえ弊社で動向を注視していれば防げたはずの)過失によって、売上金を回収しそこなうところだった。おびただしい書類を数日間のうちに作成し、大規模な組織に提出することで難を逃れた。
自身あるいは周囲が失敗を犯したときにこそ、その人の他人に対する態度がよくあらわれる。本件を機に、私は代表や同僚への信頼をこころもち回復した。嘆いたりだれかを責めたりする暇なく、手を尽くす。「次から気をつけよう」などという気休めの文句に寄りかからず、構造を変えるべくただちに動きだす。この身軽さと風通しのよさは好きだ。
そして再確認した。会社づとめそのものがこのからだになじまないとはいえ、この職場はこれまで経験した三社のなかでもっとも私に合っている。ただし、特定の国籍を揶揄することばを耳にして以来、<ここは安全な場所ではない>というほとんど生理的な嫌悪と緊張は、皮膚に深く刻みこまれたままだ。
今週のはじめは、偏頭痛がひどくて風呂にも入らず寝た。昨晩は最愛の宇宙人と電話がしたくなるくらいまで回復したけれど、すらすらとことばが出てこない自身に愕然とした記憶がある。彼は本心を打ちあけやすい稀な相手であるし、私は前回の通話以降の数日を無為に過ごしたわけではない。それなのに、わざわざ話して聞かせたいできごととか思いつきとかいったものが口から出てこないのだ。平日の私は空虚だ、と感じた。
いろいろのことをおもう。トラブルに見舞われたとしても、好きな仕事をしていれば、ここまで疲弊しなかったのだろうか? 昇給の見込みがないことは不満だが、転職によって収入が上がる保証もない。この自由な時間を手放してどうなる? 人権意識の欠落による暴言を聞くたびに転職を検討したところで、同僚は(相手にとっても)選べないというのに、状況は改善するのか? 生計を立てることが特定の他人たちと密にかかわることを意味するかぎり、怠惰で神経質な私が一日の大半を過ごせる場所はどこにもないのではないか?
いろいろのことをおもって、意識は二一、二歳にまた戻る。なんどめだろう。私はいまだ、入学試験さえ受けなかった大学院の幻にとらわれている。遅効性の未練が、年々重みを増してゆく。
どこへゆこうと、雇用条件や周囲の人権意識がいかに変わろうと、会社づとめから逃げようとして身をよじり、のたうちまわりつづけるに違いない。問題の核は、労働環境にはないから。重要なのは──いよいよ目をそらせなくなった事実は──私自身がWeb制作や「日本製の」「日本人のための」靴のマーケティングおよびブランディングを、一生をかけて取り組むべき仕事としてとらえていないことだ。
解決も教訓も覚悟もない、ひたすら恥の多い日記だけれど、偽らざる感情を書きとめる練習として、ここに生活のしみをこぼしてゆくことにする。ところで、いまは、文筆家の三文字に淡いあこがれを抱いている。